仕事に関していろいろ
プライド?
わたしのなかで、国立大学を出た、ということは、ひとつの誇りになっている。
他人をみるときもそれをひとつの分類基準にしている。
というか、そのような話をしても大丈夫なひと、というかんじ?
勉強の面白さを語ってもいい、純粋に学問のことをおもろいと思ったことがある、という。
だけど、大学で中身を伴ったかというと、微妙。
なのに、誇りにおもっている。
なんだろう、この正体は。
わたしはなにがしたいんだろう。
知りたいことがたくさんある。
でもその先には、到達していない。
それを使って考えるところには。
知らないから考えられないのか?
これとこれを結びつけるには、どう考えたらいいのか?とか考えたいんだけどなあ。
もっとガリガリ勉強してみようか。
最近思うこと。
子どもの成長には、なぜか、時間と落ち着きが必要。
早く早く、ではなく、その子の中から出てくるペースや望みを、純粋に肯定する。
『肯定しなければならないから』ではなく。それは子どもにノンバーバルとしてつたわってしまうから、意味がなくなる。
それだったら、はっきりと『わたしは好まない。だけどお前が好むことは否定しない。それにわたしとお前が違うからといってお前を嫌うことはない。』ということを伝えるほうがいいと思う。
あと、自己肯定感には、努力と成功体験が必要?
怒るだけではいけない。
ほめてけなす?
どこをほめる?
それぞれの勉強の中での得意を?
そして、クラス外ではそれぞれを好きだということを示す。
それに関連して、評価は、勉強だけじゃないということが彼らには必要だ。できなくても君は存在していていい、ということが伝わらなければならない。
けど、そこを拠りどころにしすぎたら、やらねばならないことから逃げることになる。
だったらやはり、勉強ができるから褒める、できないからけなす、ではなく、やったから褒める、やらないから褒めない、ということを統一していかなければ。
やらなくてもできるならいい、は違う。
ノートはとらせないといけない。
けど、ノートを『うつしている』時間にもっとやらせて、できるようにして帰りたいよな。
◎だけど、やらなければならないことにどう取り組むか、ということはいつも評価になる。社会では。というか、生きるときに逃げないことは、評価云々でなく、必要になってくる。
自分で決めてやらなければならないのは、いくつになっても、同じ。
ものを考える。決める。やる。の繰り返しだ、生きることって。
どうしたらやれるのか、ということを自分なりにきめることが必要。
だったらそのやり方をいくつもいくつもいくつも見せてやろうか。
その中で自分にフィットしたものを選んでやって、アレンジしていけばいいよ、と。
それには、まず、注目させることが必要ね!
集中できない彼等を集中させることも必要ね!
◎となると、ノートを、とらせる意義は?
ノートをめんどくさいからとらない、のは許していいか?
親にはノートをとらせないと証拠にならない。
だったらプリントでもいいかもしれない。
あ、わかった!
わたしはほとんど書かない。そのかわり、わたしの話をきいて、自分の言葉でまとめさせる時間を、とる?
どうせ、家に帰ってもノート見ながら勉強しないしね?
◎理科の好きな子には、理科の面白さを知って欲しい。でも受験理科を理科だと思っても欲しくない。
そのためには、全体から見て、いまこの部分、というのを伝えなければいけない。
そのためにはわたしは、全体像を知らなければいけない。
生物の全体像って知らないやあ…
やっべー
高校生物の問題集でもやるべきか?
そう、問題集やらないと身につかへんのよね。
地学と生物は、やったことないから、やるべきやな。
物理と化学も、全体像とは言いがたいが、基本の概念は、使いこなせていると思う。
だから優先順位は地学と生物。
植物もう終わるけどね。
日曜日予定いれよう、とか言ってる場合でもないなあー
やることいっぱいあるじゃん。
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